昭和42年9月27日 朝の御理解
ああ、玉杯に花うけて、と。これは私どもが少年時代に、大変あの、人気のあった小説の題名であったと思います。ああ、玉杯に花うけて、と。私どもが、ここで信心をさせて頂いて、おかげを頂いておりますが、本当におかげを頂き、人間の幸せをつかませて頂く。しかも、それが、あの世にも持って行け、この世にも残しておけれるといったような徳を、身にも家にも受けるという事でございますが。
とにかく、生易しいことではないと思います。ああ、玉杯に花うけてというのは、確かあの、大変な修行というかね、いわゆる、猛練習をしてある、その、まあ、内容は私よく知りませんけれども。例えば、野球なら野球の試合を致します。そして、あの、勝利を生むということでございます。ね。その苦労が、もう、大きければ大きかっただけです、ね、いよいよ、その、チームの、いわゆるチームワークというものがとれて、で、勝利を目指して一生懸命にけいこをする。それが、血のにじむような稽古をする。
そこで、もう、勝たなければならない。そして、そこに勝利を得たというような筋のものであると思いますけれども。私どもが、その、ああ、玉杯に花を受けてというような晴れ晴れしいおかげを頂くということ。これは、どういうような信心をさせて頂いたなら良いか。
私、今朝の御祈念に、ああ、玉杯に花を受けてということを頂きましたから、そんなことを、昔のことを思い出させて頂いたんですけれども。それには、どういうような信心が必要であるかと、私は思いましたけれども。これは、どうでもですね、チームワークの取れた信心をしなければいけないということでございます。これは、まあ、絶対と言うて良いこととございましょうけれども。
そういう、素晴らしいおかげというのはです、ね、もう、絶対にチームワークのとれた家庭の中でなからなければ、頂けるはずはございませんです。ね。昨夜、土居の共励会でございましたが、今度、久富正義さんのお宅と、久富繁雄さんのお宅と、この、交代に一月おきに信心の共励を、共励場をいたしました。初めて、久富さんのところで、まあ、開いたわけでございます。もう、本当にあの、期せずして、福岡辺りからも何人も見えられましてから、大変熱心な、秋永先生が帰ってから言っておりましたが、あちらの御信心に触れた時に、身に震えるようなものを感じておられる。
家族中の者がです、いわゆる、チームワークのとれた、お家でこうやって共励会が出けるようになったということが有り難い。それには、一家中が勢をそろえて信心しなければ、出けることではない。みんなが信心の共励に来て下さるのに、主人だけは熱心だ、奥さんだけは熱心だけれどもといったようなことで、信心の本当の共励が、来て下さる方だけがして下さるはずがない。ね。
まず、そこの共励会場であるところの、久富繁雄さんのお宅が、本当に一家をあげてのチームワークのとれた信心をさせて頂いて、その雰囲気に触れさせてもらい、そして、そこで信心の共励をするというのが、まあ、神様のご神意でもあったろう。そのことが、神様のお喜びでもあったろう、お参りをさせて頂いた者をしてです、身が、御神前に出てから身が震えるようなものを感じたと、こう、秋永先生は言うております。ね。でなかったらですね、おかげが頂けるはずがないのですよ、実を言うたら。
ああ、玉杯に花を受けてといったような、素晴らしいおかげになって来るはずはないです。なぜって、その一生懸命、中心なら中心の久富繁雄さんが信心は出けると致しましょうか、おかげを頂くと致しましょうか。身にも家にも、ね。まあ、分かりやすく言うなら、お金もたくさん貯まった、みんなが健康にもなった、家も立派になった。本当に、くら人の手本にもなるようなおかげを受けたと致しましょうか。ね。
それに、家内がもし、信心の薄かってごらんなさい、なかってごらんなさい。息子が、娘達が信心がなかったとしてごらんなさい。それこそ、そのおかげを必ず汚すでしょう。必ず、そのおかげを落としてしますでしょう。神様のおかげを頂いた、ああ、おかげを頂いたんだ、と。ね。それには、一つの問題なら問題、難儀なら難儀というものを一家中が取り組んで、そのことに一生懸命に、どうすればおかげになるか、どういうような在り方になったら一家が繁盛のおかげになるか、と。
あの世にも持って行け、この世にも残しておけるというようなお徳を頂くためには、どういう信心をさせて頂いたなら良いかと、ああでもなかろうか、こうでもなかろうかと、練って練って練り上げてです、ね。そして、そこに、もう、信心とはここに極まったといったようなものを一家中の者が感じ、それを取らせて頂いて、初めて頂けれるおかげだと私は思うです。ね。
そんためには、もう、それこそ一家中の者が、まあ、言うならば、一生懸命の信心修行というか。血の出るような信心のけいこがです、なされて初めて、私は本当のおかげというのは頂けるものだということです。そうでしょうが皆さん。頂いたおかげを息子が落としてしまう。家内が引き摺り下ろしてしまうなら、下さるはずがないです。そこで、信心は勢をそろえる、家族勢をそろえた信心をせよと仰る。ね。
一人で持ち上がらぬ石でも、大勢の者が掛け声をそろえても持てば、持ち上がるような道理じゃと仰ることはです、ね、そういう大きなおかげです。ね。家族中の者が、ね、一緒に苦労をして、一緒に持ち上げさせてもらえたというようなおかげ。そこには、苦労があるからです、それこそ、一銭二銭と言うて貯めたお金ならば、みてるということはないて。濡れ手で泡のつかみ取りになるような気になるな、と。必ず、そういうおかげはみててしまうと、教祖が仰っておられます。それが、そのことです。ね。
たとえ、よし、なるほど、そういう例がないじゃございません。おかげを受けるということが、それは、本当にたまがるようなおかげを受けるということがないじゃないですけれどもです。ね。家族中の信心じゃなかったためにです、それが、みててしまう。
濡れ手で泡のつかみ取りのつかみ取りのようなことを願ったわけではなかろうけれども、まあ、場合によってはおかげを下さってもです、ね、こうでは必ずみとるけれども、一家中の者が一銭二銭と言うて、一生懸命、この金が貯まるためには、こういう、血の出るような苦労をさせて頂いて、これは貯めたんだというのであって、これが、みてるという事がないというおかげになって来る。ね。
まず、私は、皆さんが本当の信心をせにゃいかん。そして、お父さんに付いて行かなければおられん、お母さんに付いて行かなければおられないと、例えば、まあ、子供達でも付いて来なければおられないほどの信心をです、ね。ためには、やはり、主人に、皆ああして信心しておるなら、家内が信心がないなら、家内に頼まにゃいかん。手に手をとって、取り合うた信心から生まれて来るおかげでなかにゃほんなもんじゃないぞ、と。お父さんとお母さんが、これで一生懸命、信心させてもらいよるけん、私たちの後押しぐらいはしてくれというようにです、私は、こうせにゃならんというのじゃなくて、頼むくらいな信心はいる、と。ね。ことの道理をよく分からせて、そして、一家中が勢をそろえて信心をさせてもろうて、そこに現われて来るところのおかげであるならばです、一家中の者が、一切が神様のおかげとして、それこそ、お粗末ご無礼になるような事がないおかげを頂かせてもろうて。そこんところの見極めが出来た時に、・・・・?おかげであって、本当のおかげだということが言えますでしょうね。
それは、医者の見放したような病人が助かったとか、ね、こういうおくり合わせを頂いた。もう、それはもう、びっくりするようなおかげを頂きましてもです、それが、そういうおかげを、ただ、おかげを頂いた、あん時なこげなおかげを頂いたというだけで止まらずに、本当に神様が下さろうとするところのおかげをですね、頂かなければいけんということです。一家中が勢をそろえて信心をさせてもらう。
そんなら、その一家中が信心をさせてもらうならば、どういうようなことを、信心とはこれだと、こう、分からせてもらうかということを、私、( )おってから、只今、あの、教典を開かせて頂きました。そしたらですね、このことだけは、みんなが分かっとかなければならないということです。ね。
それが、いくつもあるんですよ、たくさんあるんですよ。ね。けれども、それが、わが一家中の者が信心のけいこをさせて頂いてです、そのことが身に染みて分からせてもらうということはね、が、おかげなんです。そういうような、そういうものだという事が分かった時に下さるおかげ。
ちょっと漠然としておるようですけれどもですね、真の道の心得。この真の道の心得というものが、私どもの信心の上に頂けて、初めて本当のおかげが受けられる。しかもそれは、私一人じゃない、家族中の者が分かってから頂くものだということ。信心させて頂いておる者として、信心させて頂いておる家族としてです、ここんところだけは分かっておけよということがあると思うのですよ。ね。
ですから、それを読ませて頂きます、聞いて下さい。皆さん、この内の一ヶ条でも二ヶ条でも、本当に自分のものになっておるかどうか。ね。自分のものにならせて頂いて、そして、それが周囲に広がって行く、家族中にこれが広がって行くおかげになって行かなきゃいけんのですよ。真の道の心得。
一つ、神国の人に生まれて、神と上との大恩を知らぬこと。天の恩を知りて地の恩を知らぬこと。幼少の時を忘れて、親に不幸のこと。真の道におりながら、真の道を踏まぬこと。口に真を語りつつ、心に真のなきこと。わが身の苦労苦難を知りながら、人の身の苦難を知らぬこと。腹立てば心の鏡の曇ること。わが心の角でわが身を打つこと。人の不行状を見て、わが身の不行状になること。物事に時節を待たず、苦をすること。まめな時家業をおろそかにして物毎におごること。信心する人の真の信心なきこと、ということになっております。これが、今日はお道のいわゆる神戒。
まあ、御神戒と昔は言って、今、真の道の心得、と。ね。真の道を行く者。信心をさせて頂く者。ね。この心掛けだけは持っておけよという事なのだ。ね。そういうようなものが、私どもの信心の、ね、5年10年とさせて頂いておる内にです、そういうようなことが分かって行くということ。ね。そういうものがですね、完璧に出来てしまうということは出来んに致しましてもです、そういうようなものだということをです、思い込ませて頂くというところまでが、一つおかげを頂かにゃいけませんです。
しかも、それは家族が、全部がそこんところを分からせてもろうてです、私は、ああ、玉杯に花受けてというような感激的なおかげということになって来るんだ、と。しかも、そういうおかげであるならばです、それが、身の徳にもなり、家の徳にもなり、いよいよ、ね、めでためでたの若松様よ 枝も栄える葉も茂るというではないか、と。生神金光大神は家繁盛子孫繁盛の道を教えるのじゃ、と。こういう道を教えて下さる。ね。そういう道を、私どもが家族をあげて体得させてもろうて初めてです、頂くおかげであって、あの世にも持っていけ、この世にも残しておけれるおかげということが言えるのじゃないでしょうかね。どうぞ。